――慣行の是非を超えて、憲法秩序から再構成する――
PTA適正化推進委員会
令和8年1月
第Ⅰ章 問題設定の再定義――「徴収実務」ではなく「統治構造」の問題 2
第Ⅱ章 財政民主主義との関係――「課税なき徴収」「議決なき負担」 3
第Ⅴ章 地方自治の本旨との関係――慣行行政と自治の空洞化 5
学校徴収金(教材費、給食費等)やPTA会費を、学校(校長・教職員)が事実上の窓口となって取りまとめ、保護者に対して半ば義務的に徴収する実務(いわゆる代理徴収)は、長年にわたり全国の学校現場において「自明の理」として存在してきた。この実務は多くの場合、「徴収事務の効率化」「保護者の利便性」「現場の慣行」といった言葉によって正当化され、法的疑義が呈される場合であっても、公金・私金の区分の曖昧さや、会計処理技術の適否といった「事務手続き上の瑕疵」に議論が矮小化される傾向にあった。
しかし本稿は、この問題を単なる実務上の不備や個別法令違反(地方自治法等)の集積としてではなく、憲法が予定する統治構造が学校現場というミクロな行政空間において歪められている現象として捉え直す。すなわち、国家・地方公共団体・学校・私人団体(PTA)・保護者という法的性質の異なる複数の主体の役割と責任が混線し、公権力行使の主体と責任の所在が不明確になることで、本来確保されるべき民主的統制や権力制限が機能不全に陥っている点にこそ、問題の本質がある。
以下では、学校徴収金・PTA会費代理徴収の構造を、財政民主主義、権力分立、義務教育無償原則、地方自治の本旨という四つの憲法原理から分析し、あわせて学説・判例との接続を通じて、本問題が既存の憲法秩序の内部でどのように位置づけられるべきかを明らかにする。
学校徴収金やPTA会費の代理徴収は、形式上は「保護者の包括的な同意に基づく任意の負担」あるいは「私的自治に基づく契約」と説明されることが多い。しかし、その実態は如何なるものか。学校という公教育の実施機関が、児童・生徒の学習環境や人間関係を掌握しているという圧倒的な権力勾配の中で、徴収実務が行われている現実は看過できない。
「学校から配布された集金袋」や「学校指定口座からの自動引き落とし」というシステムに対し、保護者が真に自由な意思で拒否権を行使し得る状況にはない。不納が直ちに子どもへの事実上の不利益(教材が渡されない、心理的疎外感等)に直結するのではないかという恐怖が、構造的に保護者へ内在化されているからである。この構造において、保護者の意思決定は対等な契約当事者のそれとは異質であり、事実上の強制力を帯びた行政作用として機能している。
ここで重要なのは、この問題を「誰かが悪意を持って違法行為をしたか」という行為責任論に還元しないことである。多くの場合、教職員は善意により、教育活動の円滑な遂行を目的として従来の慣行に従っているにすぎない。しかし、個人の善意が制度的欠陥を免責するものではない。善意の累積が結果として憲法原理を侵食し、法的統制なき権力行使を生み出しているとすれば、それは個人の倫理問題ではなく、統治構造の設計ミス(systemic failure)である。
本稿は、学校徴収金・PTA会費代理徴収を、公教育における統治構造上の歪みが可視化された事例として位置づけ、その制度的意味を検討する。
憲法83条が定める財政民主主義は、国家による財産権の侵害(収奪)は、国民代表からなる議会の議決を経た法に基づいてのみ正当化されるという原理である(租税法律主義)。ここで問われるべきは、その金銭負担が形式的に「税」と命名されているか否かではない。実質的に公的権力を背景とした強制性を帯び、かつ公的サービスの対価あるいは維持費用として徴収されるのであれば、それは財政民主主義の統制下に置かれるべき対象である。
学校徴収金の実態は、まさに「準租税」あるいは「目的税」的な性格を帯びている。しかし、現行の代理徴収システムは、議会の予算審議や条例制定といった民主的プロセスを完全に迂回(バイパス)している。行政組織の末端である「学校」が、その裁量において徴収額や使途を決定し、行政権力と一体化して徴収を行う。その決定過程は住民(保護者)から不可視であり、負担の根拠や基準について議会による民主的統制が及ばない「ブラックボックス」となっている。
この構造は、議会を通じた住民意思の反映を回避し、財政責任を学校現場に沈殿させることで、事実上の「課税権」を学校長やPTA執行部に行使させているに等しい。これは「代表なければ課税なし」という近代立憲主義の基本原則に対する挑戦である。問題の核心は、会計処理が適正に行われているか否かといった技術論ではなく、住民負担の決定における「正統性(Legitimacy)」が欠如している点にある。議決なき負担は、財政民主主義の空洞化を招くものである。
近代立憲主義における権力分立は、権力の集中を防ぎ、相互監視による抑制と均衡を図るシステムである。しかし、代理徴収を行っている学校現場では、極めて危険な権力の集中が起きている。
学校は、法令に基づき教育課程を編成し、児童生徒を評価・指導・懲戒する権限を持つ行政機関(執行部)である。その学校が、同時に「金銭負担の必要性を判断(立法類似行為)」し、「徴収を執行(行政行為)」し、さらに「不納者に対する事実上の制裁や督促(司法類似行為)」までを一体的に担っているのである。
これは意図的な権力濫用というよりは、外部からの統制装置を欠いた閉鎖的な組織において不可避的に生じる「権力の自然膨張」である。本来、負担の決定(議会)、徴収の執行(行政)、紛争の解決(司法)は分離されるべきであるが、学校という密室空間においてこれらが「教育的指導」の名の下に渾然一体となっている。
権力分立原理が国家機関レベル(国会・内閣・裁判所)だけでなく、行政内部・現場レベルにおける適正手続(Due Process)としても妥当することを踏まえれば、第三者によるチェック機能が働かないこの構造は、法治主義の観点から極めて危うい状態にあると言わざるをえない。
憲法26条2項が定める「義務教育無償」の範囲については、授業料不徴収にとどまるとする判例(最大判昭和39年2月26日)が存在するものの、学説においては、教科書代や副教材費等を含む「就学に不可欠な費用」にまで及ぶべきとする見解が有力である。また、少なくとも同条項の精神は、経済的理由によって教育を受ける権利が侵害されてはならないという「教育の機会均等」を要請している。
学校が主体となって関与する徴収システムは、「払わなければ子どもが学校生活において不利益を受けるのではないか」という恐怖心を生み出し、教育参加の事実上の対価(エントランス・フィー)として金銭負担を要求する構造を作り上げている。
法形式上、PTA会費や一部の教材費が「任意」であったとしても、学校権力と一体化した徴収方法が採られている以上、保護者にとってその任意性は形骸化している。このような制度的圧力は、経済的に困窮する家庭に対して心理的・実質的な障壁となり、義務教育無償原則を内側から侵食するものである。「PTAは任意団体であり、学校とは別団体である」という形式論をもって、学校空間内で生じている実質的な権利侵害を免責することはできない。
憲法92条の「地方自治の本旨」は、団体自治と住民自治の双方から成る。中でも住民自治は、地域住民がその地域の行政に自らの意思を反映させることを不可欠の要素とする。
しかし、学校徴収金・PTA会費代理徴収は、本来ならば議会の予算審議や条例制定のプロセス(住民自治の回路)で決定されるべき事項を、行政内部の「慣行」という不可視の領域に封じ込めている。これにより、住民(保護者)が公的な場で異議を申し立て、政策決定に関与するルートが閉ざされている。
その結果、地方自治体という枠組みは存在しても、最も身近な行政機関である学校の運営に対し、住民が統治主体として参加できない状態が生じている。行政が前例踏襲の慣行のみに依拠し、住民の民主的コントロールを受け付けない態様は、地方自治の形骸化そのものである。 学校現場における「慣行行政」は、住民自治を阻害する防波堤として機能してしまっているのである。
本問題は、既存の憲法・行政法理論の枠組みにおいて、以下のように位置づけることでより鮮明にその法的問題性が浮き彫りとなる。
実質的法治主義の要請:
行政法学における「行政指導」論(例えば品川マンション事件判決における指導要綱の限界論)を参照すれば、形式が任意(指導・協力要請)であっても、事実上の強制力を伴う場合、そこには法的根拠と限界が必要とされる。学校による代理徴収は、行政指導の限界を超えた「事実上の強制」に他ならない。
教育裁量の限界:
旭川学テ事件判決等が示すように、教育内容への行政介入には慎重さが求められるが、逆に言えば、学校(教育行政)の裁量権も無限ではない。特に金銭徴収という財産権侵害を伴う行政活動において、広範な「教育裁量」を認める根拠は乏しい。
慣行行政批判:
行政法理論において、違法な慣行が長期間継続したからといって適法化されるわけではない(違法の承継は認められない)。「長年の慣習」は、憲法原理に反する場合、法的保護に値しない。
これらの議論を総合すれば、学校徴収金問題は既存理論の例外(学校だから許される特殊領域)ではなく、むしろ既存の法治主義・民主主義理論が厳格に適用されるべき最前線として再構成される。
以上の分析より、学校徴収金・PTA会費代理徴収問題の本質は、単なる会計実務の不手際にあるのではないことが明らかである。それは、財政民主主義(議決なき負担)、権力分立(監視なき権力執行)、義務教育無償原則(教育アクセスの阻害)、地方自治の本旨(住民自治の遮断)という四つの憲法原理を、複合的かつ同時に侵食する深刻な統治構造上の欠陥である。
ゆえに、この問題の解決策は、単に「同意書を取る」「通帳を分ける」といった対症療法的な実務改善や違法是正のみでは不十分である。「学校とは法的に何をなし得る組織なのか」「住民の金銭的負担は、いかなるプロセスを経て誰が決定すべきなのか」という、公教育における統治構造そのものの再設計が不可欠である。
具体的には、学校徴収金の完全公会計化による議会統制の確立、PTAと学校の機能・会計の厳格な分離(法的ファイアウォールの設置)、そして何よりも、教育に係る費用負担を「現場の善意と私費」に依存する体質からの脱却が求められる。本稿は、慣行の是非という低次元の議論を超え、憲法秩序に適合した新しい学校ガバナンスを構築するための理論的礎石となることを企図するものである。